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 開創は弘仁年間(809~823)、嵯峨天皇が住吉明神の夢のお告げに依り、弘法大師に命じて、七堂伽藍を建てたと伝えられています。本尊不動明王は弘法大師の御作で、丈五尺六寸、岩窟内に祀られています。洞の高さ10m、幅5m、奥行7mで、北方を向き、独鈷の滝と対峙しております。
 寺の歴史に関しては、天正時代の兵火により、一山悉く焼失し、詳しい資料は寺には殆ど残されていません。ただ、寺がある香良という村に残っている資料や語り伝えにより、歴史の一端を知る事ができます。「香良の史談会」(文責臼井敏夫)による「物語り村の歴史 故郷のあゆみ 香良」という資料がありますので、その中から岩瀧寺にかかわる部分を引用(文字茶色)いたします。

浅山不動尊護摩堂の謎

 岩瀧寺の奥の院。本尊不動明王の安置されている洞窟の前に、護摩祈願をする護摩堂がある。現在の建物は二間半に三間半の瓦葺き、頑丈な建物である。
 岩瀧寺の古文書によれば、安政五(1858)年に改築された建物であると云う。丹波史年表には、慶長十九(1614)年「北由良領主・別所吉治、息女の眼病にて香良不動尊に祈り護摩堂を建つ」とある。
 又、明和四(1767)年。時の香良村庄屋銀十郎が京都の寺社奉行に提出したと思われる、「寺社改控」と云う文書に、不動尊の護摩堂は、二間に二間半、草葺きとなっている。
 寛政五(1793)年編集の丹波志によれば、護摩堂は、二間の二間半・銅瓦葺きと記されている。
 明和四年の時点で草葺きであった屋根は、丹波志が編集される寛政五年までの、二十数年の間に銅瓦葺きになったのである。そして、安政五年。二間半の三間半と広く建替えられた時瓦葺きに変わっている。銅瓦はどこへ行ったのであろうか?(後略)

浅山不動尊・奥之院石段の由来

 不動尊の祀られている洞窟から、独鈷の滝までの間に、高い石段が敷積まれている。
 天明五年九月と刻まれた石柱があるので天明年間に完工したものである。古老の言い伝えによると、この石段の石材は、香良の奥山三の谷から切り出されたものであるといわれている。この交通不便な時代、この石段の石が遠い他地区から運ばれたものとは、思われないので、この伝説も実説だと思われれる。
 三の谷は、香良では一番奥深い谷である。この当時は、まだ雌滝の上を通る、牛の首の林道ができていなかった頃のことである。不動山から三の谷まで行くのには、美和坂の途中から牛の首の難所を越えなければ、三の谷へ行く事ができなかった。そのころは薪でも山桑でも、皆、この難所を歩いて運んだものである。
 しかし、石段に使われている石は、一人で背負える程に加工されているものもあるが如何に、昔の人の力が強かったといっても、到底二人掛かりでも動かせないと思えるものも多い。だが現実に石段は積まれている。三の谷で切り出し、加工した石材を信仰心一途に、各々の力に応じ、細い山道を上り下りしながら運んだものであろう。
 今の人は、この話をしても信じないかも知れないが、誰か試しに、三の谷の石片を石段の石と照合してみれば、納得のいくこと間違いなしである。
 また、この石段とは別に、不動尊の護摩堂の敷地に積まれている、石垣の石はどこから持って来たのであろうか?。 香良の岩山の石質は脆くて、石材にはならないと言われている。事実すぐ割れる。護摩堂に城のように積まれている石垣。勿論、現地の石も使ってあるであろうが、近くで大量に切り出した跡も見当たらない。
 これも、古老の伝説では、香良の通称、観音奥と呼ばれる、滝なめら、狸岩という奥山に石切場が残っている。ここから、石を運んで石垣が積まれたとの話がある。
 これも又、難事業であったろう。観音奥から不動さんまでは足場の悪い、谷川のような道が七、八百メートルもあって、今の常識では信じ兼ねることではあるが、立派な石垣が積まれている現実を見る時。これを信じない訳にはいかない。信仰の力は偉大だ。(後略)

一伝流不動剣と岩瀧寺

 県道・香良口に「浅山一伝流兵法根元地」と刻んだ石碑が建っている。氷上郡市島勅使の旧家・稲上氏の建立したものである。  兵法根元之地」が何を意味するものかはっきりしない。この地に一伝斎の道場か住居があったのか、或は彼が籠った不動滝への入口表示であるのか判断に苦しむ。しかし、何れにしろ浅山一伝斎がこの地に関係のあることは、いろいろの証拠によって確かめる事ができる。浅山一伝斎が有名であるのは、寛永の御前試合に於いて、当時の名人上手の剣豪として出場している為である。出場者は二十二名。荒木又右ェ門・宮本八五郎・大久保彦左ェ門の名もみえる。この上覧試合は寛永十一年(1634)年九月二十一日。吹上上覧所で、三代将軍家光。出席の下で行われたと伝えられる。
 浅山一伝斎は、井場泉水軒と云う下谷御徒士町の住人と戦って負けている。ところが奇怪なのは、この寛永御前試合は実は偽物だと云う事だ。「徳川実記」によると、同じ日に三代将軍は、日光へ参詣している。将軍のいない御前試合などと云うことは考えられない。
 それに出場者中、荒木又右ェ門は義弟・渡辺数馬を助けて、敵の河合又五郎を探しに関西を旅行中であったと云うのだから、この試合の信憑性は益々薄くなる。この話はおそらく講談から出たものであろう。それとしても浅山一伝斎が二十二名の中に入っている事は名のある剣客であった証拠にはなる。一伝斎が実在したのは確かであるようだ。
 一伝斎は上州碓氷の郷士。或は伊賀出身だとも云われているが定かでない。
 東京の徳源院墓地に「帰雲院殿別峰一伝居士」と墓があって、これが一伝斎の墓である。
 寛政九年丁己閏七月六日死亡と刻まれている。寛政は十一代将軍家斉の時代の年号だから、寛永年間とは百年以上ずれがある。従って、一伝斎と云う名は代々受け継がれていて、丹波に来たのはその中の一人だと云う解釈も成り立つ。
 浅山一伝流と云うのは、柔剣・捕手棒・手裏剣などを総合したもので、いわば現在の逮捕術のようなものであるから、平和時代に適した武術であり、全国的に広く普及した。
 門下は三千人とも五千人とも云われるが、著名な門人には、生涯一度も喧嘩をしなかったと云う上州の侠客・大前田英五郎がいる。一伝斎は遠い丹波にどうして来たのであろう、臼井芳郎氏は「香良不動山岩瀧寺の古い什器には、浅山姓を記したものがある。三代前の住職が浅山姓であったから、三五郎一伝斎は親戚か友人かの縁でここへ来て、幽遂厳粛な風致を好み、修行の場としたのであろう」と述べておられるが、間違いなかろう。(後略)

佐渡に残る岩瀧寺の歴史

 丹波志によれば、岩瀧寺の古記が佐渡にありと記載されている。
 最近までその古記がどんなものであるか、知ることが出来なかった。偶々、昭和五十七年、佐渡に於いて「佐渡流人展」が開かれることになり、佐渡の郷土史研究の方から、氷上郡教育委員会を通じて問合わせがあったことから、真相が解ってきたのである。
 寛文三年。丹波氷上郡の真言宗・岩瀧寺住職、賢清と云う人が、直訴の罪によって佐渡へ流罪となり、元禄八年・御赦免になった後も、引続き佐渡在住を許され、医業を職として土着し、名も北条道益と改め、子孫代々医者を継ぎ、現在も地方の名家として繁栄していると云うのである。
 「佐渡流人展」の資料として岩瀧寺の写真等が欲しいとの要求があった。それと引換えに、佐渡の郷土誌「近代佐渡の流人」(昭和四十四年発行)と東京雄山閣発行の「佐渡流人史」の内の北条道益に関する記事のコピーが送付されてきた。
 全文は相当長いので、一部を要約して載せる。・・コピーなどは、岩瀧寺にある・・  医師 北条道益 (直訴)
 漢方医として、自活した流人がある。北条道益である。彼が赦免になると国仲へ疎開して在地の地主になった。今も子孫が続いている珍しい例である。道益の科書は次のように書かれている。


 丹波国氷上郡 真言宗 岩瀧寺 寛文四亥八月晦日御赦免

 此の岩瀧寺 二十四年以前子年(慶安元年)より江戸へ相詰

 候て寺領の儀訴訟仕罷*其の上九年以前寛文三卯四月 下野

 国小山と申所にて直訴申上候 科に 流罪 「佐渡風土記」


 この岩瀧寺が北条道益であった。丹波氷上郡は、兵庫県の氷上である。岩瀧寺の住職であったに違いない。寺領の事で、何か容易ならぬことが起こり、慶安元年(1648)江戸へ出て寺社奉行に訴え裁判を起こしている。しかしその後、寛文三年、下野国(栃木県)小山と云う所で直訴したとあるから、寺領の問題は奉行段階で決着がつかなかったとみえる。
 この直訴が遠島の原因となった。(中略)
 岩瀧寺の方には、これらの史実を裏付ける資料は皆無であるが、賢清上人を直訴にまで決意させた、寺領の争点は果たして何であっただろうか。今は推量するより致し方ないのであるが、丹波志等の伝える如く、弘法大師の創建で、嵯峨天皇の勅願所であり、また、瀧寺千軒の盟主であり、鎌倉幕府源頼朝の禁札の事と云い、戦国騒乱で消滅するまでの、岩瀧寺には、寺領としての既得権が相当あったと想像される。騒乱後、岩瀧寺の再興に努力し、建物の再建と寺領の復権に励んだのであるが、中央政権の交替で支配者も変わり、種々の悶着が起きたことは想像出来る。
 賢清上人はこれらの解決に東奔西走するも、志を達する事を得ず、失意の中にも宗教人としての余生を佐渡で全うし、九十六才の大往生を遂げたのである。
 現在の岩瀧寺の墓所には、寛文以前の墓石は一基も見当たらない。宝永年代の墓石が中興の祖として祭られ、以後歴代の墓石が並んでいる。(後略)(以上香良誌より)

昭和初期より現在までの岩瀧寺

 「物語り村の歴史 故郷のあゆみ 香良」からの引用は以上ですが、私(小林英哉)は一時期この寺の住職を務めましたので、昭和初期から現在までの知っている事を述べさせて頂きます。


 当寺第十世浅山英雅師隠居に伴い、播州下久来の浄泉寺より小林慈海師が岩瀧寺へ赴任したのが大正九年頃です。その頃、英雅師は参詣者に瀧治療をすすめていましたので、その治療法を受け継ぎ、病棟を新築、多くの精神病患者を受け入れ、瀧治療に専念しました。この瀧治療に関しては最近、大学の先生が調査に来られ論文としてまとめられました。その論文を出版社の許可を得て転載しましたので、詳しくは「岩瀧寺における精神病治療」(精神看護2010年7月号:医学書院)をクリックしてご覧下さい。
 瀧治療に依る精神病患者の増加と共に病棟も新築され、多くの入所者が毎日瀧に打たれ、不動さんへお参りしました。また寺庭には枝垂れ桜の大木があり、花時は大変な賑わいで、坂下に旅館(瀧見亭)や料亭(香月)も営業を始め、岩瀧寺の最も華やいだ時代を迎えました。
 私は大正十五年にここで生まれ、小学校を卒業するまで、この寺の最も賑やかだった時代を過してきました。学校から帰ると、寺下の谷川で魚釣りをしたり、不動さん奥でワラビ取り、秋にはアケビやクロウスゴ、11月中旬の山あけ(松茸山の解禁)には向山の岩棚で乾松茸を採ったりなど、楽しい思い出がいっぱいです。ただ境内が広いので、掃除や草引が大変でした。また燃料は一切薪でしたから、秋から冬は薪作りばかりやらされました。中学から大学は高野山で寄宿生活でしたが、中途退学、二十年召集で弘前騎兵隊に入隊、やがて終戦で帰還と苦難の日々が始まりました。当時父(慈海)は病気で長く寝込んでいましたが、後継ぎが帰って来て喜んだのも束の間、その秋六十三才で亡くなりました。間もなく、隣村高山寺住職、上井寛圓師(後の京都大覚寺管長)にお願いして、普山式を行い、当寺十二世となったのですが、二十才の若僧には世の中のことが殆んど何も分っていないのです。先づ寺の財政は危機的状態でした。加えて戦後の混乱期で参詣者や遊山客も殆んど無く、唯一の収入源だった瀧治療も香良病院に移転、同じ頃農地解放で寺有田もなくなりました。
 それでも生活費ぐらいは何とでもなったのですが、長年放置された堂塔や庫理の修復までは自分の力ではどうにもなりません。そこで最後の手段として思いついたのが観光化です。ちょうどその頃は杉桧の大径木は異状な高値でしたから、その一部を伐採、跡地に桜や楓等を植林するという案です。しかし今から考えれば、この案は時期尚早、残念乍ら総代諸氏の同意を得られず、上井師の賛意も得られませんでした。止むを得ず私は寺を出ることを決意。上井師に一時兼務の形で後事を託し、妻子を連れて大阪へ出ました。昭和二十六年初秋、上井師のお世話で河内道明寺さまから美しい尼僧さまが入山して下さいました。ここからこの寺は新しい発展の時代へと大きく変貌して行くことになります。
 昭和二十六年秋、和田賢龍尼様が当寺十三世として上井寛圓師を導師として盛大な普山式が行われました。これは誠に画期的で尼寺になるのはこの寺の歴史上初めてのことかと思われます。そうして賢龍尼様の努力と多くの信者の方々の厚い寄進に依って、先づ不動尊拝殿の新築、本堂、庫裏、山門、倉庫、諸堂の修復、梵鐘の鋳造、さらにお茶室の新築まで誠に目を見張る復興を成し遂げられました。平成3年3月賢龍尼様が遷化され、ただちに名古屋出身の和田滝光尼様が後継者として決まり、第十四世住職になられました。以来20年多くの信者さんのもと、諸堂の修復維持に努力され、平成12年には四国八十八個所本尊仏の再建や庫裏の解放や接待によって、親しみやすい岩瀧寺として現在に至っています。

歴代住職

歴代の住職の記録は1700年頃以降しか存在せず、亮雄上人が中興の祖とされています。

当寺  
開創 弘法大師
第一世 亮雄上人
第二世 致成阿闍梨
第三世 實眞上人
第四世 密全上人
第五世 英俊上人
第六世 寛誠法印
第七世 寛龍上人
第八世 寛雅上人
第九世 龍雅上人
第十世 浅山英雅上人
第十一世 小林慈海上人
第十二世 小林英哉
第十三世 和田賢龍尼
第十四世 和田滝光尼